2016/02/25

【VIEW OSAKA #1 THE DOME】

VIEW OSAKA THE DOME



The preamble

Gazing at the Dome

The Dome is located in Nishi-ku, one of Osaka’s older downtown districts. When it was completed on March 1, 1997, the structure was called Osaka Dome, but on July 1, 2006, the name was changed to Kyocera Dome Osaka. Despite this, many locals continue to refer to it as Osaka Dome or simply the Dome.

In Japan, there are six dome-shaped stadiums used primarily for baseball – Sapporo, Tokorozawa, Tokyo, Nagoya, Fukuoka, and Osaka. What makes the Osaka stadium distinctive is the silver bowl-like structure on top of the cylindrical section and the large hatband-like corrugated tubes attached that recall the body of a snake or dragon. These tubes, visible from any point around the structure, add some variety to the Dome’s otherwise uniform features.

A shiny silver color when completed, the Dome is reminiscent of a flying object from some distant planet, and originally seemed to signal a bright future for the area. Local residents anticipated that it would play a leading role in a major regional development project. But although all-star professional baseball games, magnificent concerts, and entrance ceremonies for huge universities and companies are often held inside, the Dome has simply turned into a strange gigantic structure that quietly lurks in the background.

At 83 meters, the Dome is lower than the famous Tsutenkaku Tower (app. 100 meters) in Osaka’s Shin-Sekai district and is overshadowed by surrounding office and apartment buildings, making it difficult to catch a glimpse of the entire structure. At times, expecting an amazing transformation, I have gazed down at the Dome from the window, emergency exit, or roof of a high-rise, but it always looks the same.

While wishing that the Dome might one day be designated as a tangible cultural property, I hope that you enjoy savoring the charms of Osaka as seen in these photographs taken from the surrounding area.

Tomatsu Shiro



***********************************************************************
<日本語>

ドームを眺める  
  

 大阪の下町、西区に「ドーム」がある。199731日完成した時、「大阪ドーム」と命名されたが、200671日「京セラドーム大阪」と改名された。それでも、地元の多くの人は、今でも「大阪ドーム」或は単に「ドーム」と呼んでいる。

 日本に野球を主体としたドーム型球場は、札幌、所沢、東京、名古屋、福岡そして大阪の6ヶ所ある。大阪ドームの特徴は、円筒上部に銀色のお碗を臥せた構造に、蛇あるいは竜の胴体を思わせる鉢巻状の大型波打ちチューブが取り巻いている事である 。この波打ちチューブが360度、何処から見ても同じドームに若干の変化を顕している。

 完成した時、銀色に輝くドームは、遥か遠い星からやって来た飛行物体を思わせ、下町に明るい未来を予感させてくれた。そして、地元は地域大発展の主役を期待した。しかし、ドーム内でプロ野球オールスター戦が行われ、盛大なコンサートが開催され、マンモス大学の入学式や大企業の入社式が執り行なわれても、ドームは地元の主役になる事もなく、息を潜め静かに鎮座まします不思議な巨大造形物のままである。

 ドームは、大阪の新世界にある有名な通天閣の塔高100mより低い83mの高さのため、周辺のビルやマンションなどの陰になり、ドーム全体を眺めるのは至難の業である。時には、素晴らしい容姿を期待して、高層ビル等の窓や非常階段そして屋上から眺めたが、ドームそのものは何時もと同じ姿である。

 何時の日か、ドームが登録有形文化財となる事を願いつつ、下町界隈からドームを眺めた写真に、大阪浪花の「風情」を感じてもらえたら嬉しく思います。

東 松 至 朗  

(撮影期間:200911月~201211月)

2016/02/22

2016/02/21

天王寺区 味原本町

天王寺区は空襲にあわずに結構古い家が残っています。
そんな、「味原町」と「味原本町」そして「下味原町」は隣同士の町で、どちらもさほど広い町ではありません。
共に「丁目」のない「番地」だけの町です・・・

福島区の町名を参考にしたら、大阪城に近い順に「味原町一丁目」、「味原町二丁目」、「味原町三丁目」と昭和50年代に行われた「住所の合理化」の時、町名整理をされても仕方が無かったのにと、区外居住者の私は不思議に思います。

「住所の合理化」が為されなかったのは、老舗の「本舗」、「元祖」などの様に、その昔から、どちらが「味原」の正統か争いの決着が付かなく、根深い「わだまかり 」が長い間あったのでしょうか?



この辺りは上町台地の関係で大阪市内では珍しいく坂の多い所です。

何かの本で、大阪の地名由来は・・・
秀吉が大坂城を上町台地に築城して城の名前を決める時、当時上町台地の住人が口にしていた「小さな坂の多い所」→「小坂の所」→「小坂」の名前から「小坂城」では迫力無いと「小坂」→「小」を「お」とよんで「おさか」→「おおさか」→「大坂城」と命名した読んだことがありますが、真偽の程はわかりません。

「大坂」は明治以降「大阪」に変更になってます。

2016/02/19

天王寺区 味原町



写真を視ると舟橋町交差点表示がありますが、奥に続く上り坂の左側が味原町1番地です。




坂を上りきった辺りが上町台地の稜線と思われます。

味原町の由縁は昔、味原池という溜め池が有ったことから町名がつけられたそうです。

この味原池は大正時代に埋め立てられたようです。

この味原町は上町台地の中腹辺りなので、溜池は上町台地の上側から流れてきた雨水を溜め、田植えなどの時、台地の傾斜を利用して田畑に水を送るには丁度良かったのでしょう。

大正時代には、台地東側に有った田畑の市街化がすすんで溜池が不要になったのでしょうね。(個人の想像です。汗)

2016/02/18

天王寺区 下味原町

鶴橋駅は近鉄とJRと地下鉄の3っの駅の名前です。

鶴橋は大阪市生野区鶴橋の町名です。

近鉄鶴橋駅は1914年に開業し、生野区鶴橋2丁目が表示住所です。

JR環状線の鶴橋駅は1932年、地下鉄鶴橋駅は1969年に天王寺区下味原1番地を表示住所にして駅開業しています。

本来ならJRと地下鉄の駅名は「下味原駅」?

これでは乗換えが不便なので先輩の「近鉄鶴橋駅」にあやかっての「鶴橋駅」となったのかな。


写真には地下鉄の入り口も写ってます。見えますかね~?




それにしても、堪りません。夕方から近鉄やJRのホームに居てると焼肉の煙と香りがしてきます。


大阪市天王寺区下味原町1番地で

2016/02/17

超精密描写絵画家 RICHARD ESTES

たまたま入った古本屋。

写真コーナーで見つけた街風景写真集?

表紙や書中のカラー写真を視ると近代的な都市の街風景が載っています。



 


前書に載っていたウジューヌ・アッジェとウオーカー・エバンスの写真からこの著者もアッジェやエバンスの写真を参考にしてるんだと思い購入を決めました。



写真を視ているとどうも変です。

ショーウインドウに写り込んだ街角がとても綺麗。

渋谷の街角の写真を視て看板の書体が変。

改めてTEXTを読むと・・・カラー写真だと思っていたのが全て「絵」でした。

RICHARD ESTESは絵画の世界で超精密描写絵画の大御所でした。

知らなかったとは言え・・・・写真コーナーに置かないでよ!(赤面)

本は1990年、日本で開催された「RICHARD ESTES展」の図録です。


2016/02/15

大阪市此花区桜島 ユニバーサル・スタジオ・ジャパン (USJ)

今、大人気の桜島のUFJ

桜島周辺は明治中期より工場が相次いで建設され、昭和末期まで、阪神工業地帯の中心的地位を担っていました

1980年代以降は、工場の地方・海外移転などが進み、貨物駅や工場が廃止され、工場跡地の空き地が増え寂しい風景がありました。

そんな中、2001年ユニバーサル・スタジオ・ジャパン (USJが開業され、今では世界からの来訪者が訪れ、「USJ」はとても賑わっています。

昼間の写真の「水防予備倉庫」の場所が桜島一丁目1番地です。



左奥に見えるベージュ色の建物がユニバーサルスタジオの「バック・トゥ・ザ・フューチャー・ザ・ライド」の建物背面だと思います。

右側は阪神高速湾岸線です。 


夕方の写真は、国道43号線の安治川に架かる橋から見た、夕方の眺めです。



安治川水門アーチと、その向こうにユニバーサル・スタジオ・ジャパンのホテル群です。


2016/02/11

浪速区 道頓堀 湊町リバープレイス



道頓堀川の「湊町リバープレイスウッドデッキ」です。


 「湊町リバープレイスウッドデッキ」の本体は八角形の独特な建物です。

音楽・パフォーマンスイベントや展示会に幅広く使用されています。

写真のウッドデッキを下りると道頓堀川を航行する遊覧船の湊町船着場です。

 大阪市浪速区湊町



2016/02/09

大阪市港区海岸通

天保山というと何となく古いイメージを持ちますが、

海岸通となるとお洒落に感じます。



貯金箱や自動販売機の硬貨投入口が細なが~い四角形をしている理由が実感できます。

港区海岸通一丁目

2016/02/07

天王寺区舟橋町


写真は東成区から見たJR大阪環状線高架下、天王寺区舟橋町1番地です。

この辺りの地形は上町台地の東側になります。



この「舟橋」と言う地名ははもともとの地名「舟走」が→「ふなばしり」→「ふなばし」→「船橋」になったとの事ですが・・・・確認してません。

上町台地の東側が、海から陸地になったのは何時ごろか分かりませんが、遠い昔に舟で上町台地東海岸にやって来た名残が「舟走り」と言われるのかもしれないと想像しています。

JR大阪環状線のこの辺りが天王寺区と東成区の境界です。

<参考>
6000年前の大阪の地形は↓のブログ「なにわまナビガイド」をご覧ください。

      http://www.nmguide.jp/outline/

2016/02/05

大阪市西成区 「都市の遠近」

1990年発行の築地仁「都市の遠近は、東京神田神保町の古本屋街へ行き、「魚山堂」で買った本です。



表紙の写真は1989年、西成区「釜ヶ崎」地区界隈だそうです。

本に掲載されている写真は、多くの人が求める大阪の「場所が持つ雑多」なイメージは無くとてもスマートです。

これはこれで、1989年の「大阪風景」でしょう。


「都市の遠近」に掲載されてる写真も東京国立近代美術館に所蔵されています。
本で見る写真は印刷の関係でクオリティーが低く、是非オリジナルプリントで視たいとおもいます。



この写真は表紙の写真とほぼ同じ場所、西成区の2015年12月の写真です。

2016/02/03

天王寺区 国分町


その昔、国分寺があったことから国分町と名づけられたそうです。

由緒ある地区なんでしょう。

実際に国分町に国分寺というお寺がありますが、聖武天皇勅願の国分寺かどうかは確認していません。



現在、国分寺1番地の全てがJR大阪環状線高架下です。

2016/02/01

大阪市北区 堂島浜

東京中央区にある「日本橋」は日本橋川に架かる有名な橋です。

この橋の上を首都高速が通っています。
この首都高速を撤去して「日本橋に青空を!」という声が有るのを訊きました。
一方、首都高速を撤去しても「日本橋の上の高架を日本産業遺産として保存を!」と言うのも訊きました。

大阪にも東京日本橋のような所があります。

大阪市北区の町「堂島」と堂島川にはさまれた「堂島浜」と言う町があります。
「堂島浜」は多分、江戸時代に米を運ぶ船が米を陸揚げする「浜」が堂島に近いから名づけられたのではと想像しています。

現在の「堂島浜一丁目1番地」は御堂筋の大江橋北詰西側の銀行と堂島川の間にあります。堤防の影、阪神高速1号環状線の高架下となっています。

夜には中途半端なライトアップが高速道路に・・・(個人の感想です)



多分に「堂島浜」に番地を付けたのが戦後の事だろうと思うのですが、なんで植え込みしかない所をトップナンバーの「一丁目1番地」にしたんですかね。

それにしても高架下、ガード下に「一丁目1番地」多すぎません?

2016/01/31

東京都千代田区北の丸公園3番地

東京国立近代美術館に行きました。


で、東京国立近代美術館は千代田区北の丸公園3番地にあります。

この美術館の入り口横の写真です。

3っの住所標識はどうみても3番地の門柱のような所に掲げてあるんですよ。



3番地に4,5,6番地の住所標識を並べて・・・何の為の住所標識?

意味有るんですかね???

東京都千代田区北の丸公園3番地で

2016/01/29

浪速区 戎本町

お正月が終わるとすぐに十日戎(とおかえびす)という祭事がやってきます。

大阪の商売繁盛の神様「えべっさん」の今宮戎神社は、大阪市浪速区にある神社です。


この今宮戎神社の所在地は浪速区恵美須西1丁目6番地です。

なんですが・・・町名「恵比寿西」の南西隣に「戎本町」という町名があるんです。

「戎」も「恵比寿」も同じ意味で、「戎本町一丁目1番地」に今宮戎神社が鎮座しているの

なら字面からも「なるほどね」と言えるんですが・・・



しかし、「戎本町一丁目1番地」は南海電車南海本線高架の真下なんですよ。



2016/01/24

阿倍野区昭和町

地下鉄御堂筋線の新大阪駅から梅田駅方面へ行く最初の駅は「西中島南方駅」です。

「南方」は町名「西中島」の古い地域名だそうです。

当初、先に出来た阪急電車「南方駅」乗り換え最寄り駅ということで、地下鉄も「南方駅」に命名の予定でした。

しかし、地下鉄の駅が出来る町は西中島という町名で、やむなく「西中島南方駅」と最終決着がつきました。

町名と地域名が二つ入った駅名の全国最初の例だそうです。


話は代わりますが・・・

阿倍野区昭和町一丁目1番地を探して街中をウロウロしたのですが、見つかりません。
近くまで行くのですが、たどり着きません。

阪神高速松原線の高架下に地下鉄谷町線「文の里駅」があるのですが、てっきり「文の里駅」は文の里町内とばかりと思ってました。



なんと、「文の里駅」の所在地は昭和町一丁目1番地です。

いくら昭和町を通る御堂筋線の駅名が既に「昭和町駅」だといって遠慮せずに、谷町線「北昭和町駅」にすればと思います。

梅田には地下鉄の駅名だけでも「梅田駅」、「東梅田駅」、「西梅田駅」とあるのに。

阿倍野区役所が文の里にあることから行政が区役所に近いからと「文の里駅」にしたのではと妄想しています。

「西中島南方駅」は西中島地域住民の強い郷土愛が行政を動かしたのに・・・

それにしても、大阪市は高架下に一丁目1番地が多くないですか?

2016/01/22

中央区道修町

大阪市中央区道修町は薬の町です。

江戸時代から薬問屋が集まり、今でも関西メーカーと業界で言われる製薬会社の多くが本社を置いています。

この道修町一丁目に関東メーカーが関西メーカーの聖地に乗り込むように第一製薬や三共が大阪支店を置きました。

写真は2005年頃の道修町一丁目です。

第一製薬の社章が見えます。



二枚目の写真は現在の道修町一丁目1番地1号に建つ第一三共大阪支店別館です。

 道路を挟んで本館が建ってます。


大阪市中央区道修町一丁目

2016/01/20

オランダ国ライデン市  和歌・俳句

オランダライデン市の写真の整理で出てきた日本関係の写真です。

町を散策していると壁に落書き?

日本語のスプレー落書か?!

旧市街地のビルの壁に色々文字が書いてあります。



知人に聞いたら、ライデン市はビルの管理者の協力を得て、古今東西の有名な詩を原語で紹介しているそうです。

日本語、オランダ語、英語、ドイツ語、ラテン語?等々

因みに中国語、韓国語は見かけませんでした。(無いそうです)

李白や杜甫の漢詩が有ってもよさそうですが・・・

で、日本語で書かれた壁の詩は芭蕉の俳句と菅原道真の和歌でした。

丁寧に解説のパネルも脇に貼ってあります。







ついでに、植物園の中にも日本語で「ボケ」まで・・・・?

じゃなくて、木瓜の花 バラ科です。






なんでも、シーボルトがオランダに持ち込んだ木瓜の木の直系子孫だそうです。

パネルの左下のデザインはシーボルトが日本で使っていた「家紋」との事。

オランダ国ライデン市

ライデン市と大阪市の高層住宅

写真を整理していたらオランダの夜の写真が出てきました。

夜の写真は3月2日、オランダ ライデン市のアパートメントビルの写真です。





夜10時ごろ、知人(日本人)の家からホテルに戻る時に撮りました。

昼間の写真は、大阪市の10月26日の写真です。



オランダの人は早春といえどもまだ冬の状態なのに、ましてや深夜に近いのに、殆どの部屋のカーテンを閉めていません。

大阪の人は秋なのに完全に目隠し?状態です。

どうしても気になったので、オランダから帰国した件の知人に、「なんでライデンの人は夜になってもカーテンを閉めないの?」と理由を聞きました。

返答は・・・・

オランダは緯度が高いので夏でも太陽の位置が低い。

なので、部屋の中に太陽光が差し込まないように昼間カーテンをする事もある。

夜は当然太陽光が無いので、まずカーテンを閉める理由がない。

基本、オランダの人は部屋の中が外から見られることに抵抗が全く無い。

と、言うか見せたいのでよっぽど理由が無い限りカーテンを閉めないのでは。

本当かな~?

オランダの写真から、部屋の家具や壁の絵などのインテリアの様子がよくわかります。

2016/01/19

大正区三軒屋西 尻無川左岸


2013年4月の尻無川左岸の写真を見ると、手前の建物には星条旗が掲げられています。



アメリカ風のレストランだったと思います。

2016年1月に同じ場所を通ると、とってもカラフルになっています。




店内を覗くと絵が掲げられていました。

絵画ギャラリーになったようです。

大正区 三軒家西 尻無川左岸で

2016/01/18

大正区 中山製鋼所転炉工場

小川未明の童話「眠い町」をご存知ですか?

中山製綱所に「砂」がかけられた結果だとは思いませんが、なぜか童話「眠い町」を思い出しました。




既に建屋の半分は撤去されています。


今年の3月中には残っている建屋も解体されるようです。

映画「ブラックレイン」の撮影舞台にもなった工場が消えていきます。



写真は解体中の中山製鋼所転炉工場です。

大阪市北区中津

画家佐伯祐三の故郷は大阪北区中津です。

佐伯祐三の絵は故郷中津の雰囲気を引きずってると私は思ってます。

写真は阪急電鉄三路線高架橋下の中津一丁目の様子です。

写真の右側から阪急電車京都線、宝塚線そして左端に少しだけ写ってるのが神戸線です。




この線路沿い南側に国道176号線の高架が併走しています。

二枚目の写真はこの国道176号線高架下です。



多くの写真家がこの不思議な空間を撮影し、作品化しています。

二枚目の写真は2009年の撮影ですが、今では高架下のユニークなお店等が高架耐震工事?の為に退去してると聞きました。

フォトジェニックな街角が消えるのは寂しいですね。

大阪市北区中津で

2016/01/17

阿倍野区 桃ケ池町



阪神高速松原線は1980年(昭和56年)に全線開通しました。

この松原線は阿倍野区を通って松原市に通じています。
阿倍野区の高速道路高架下に桃ケ池町という町があります。

桃ケ池町名は、町内に古くから所在する古池の股(もも)ケ池が由来だそうです。「股(もも)」の字を「桃」の字に変えて名付けられ、股ケ池の池の名も桃ケ池に替えられたそうです。

桃ケ池町に行ってきました。

住所表示が無いので地図からの類推ですが、現在の桃ケ池町一丁目1番地は写真に写ってる高速道路高架下の駐車場のようです。






大阪市内の町名で「一丁目1番地」の幾つかが、高速道路高架下、国道高架下あるいは電車線路高架下に見受けられます。


大阪市阿倍野区桃ケ池町一丁目1番地で

2016/01/16

大阪市中央区南新町

街中を歩いていると、自分の姿がガラス窓や鏡に映ってると「ぎょ!」です。

鏡に映った自分が右手を挙げると、鏡の中の自分は左手を挙げてます。

なぜ鏡の像は左右反転して、上下反転しないのか?

この答えが、人間の目が横に付いているから。

と、笑い話にありました。

でも、両目が縦に付いていたら、上下反転する?

じゃ、片目というか一眼で見たらどうなるの?

その答えが・・・

一眼レフカメラで撮影しました。



文字は反転してるのと反転してないが映ってる???

街中はワンダーランドです。

大阪市中央区南新町一丁目一番地で

因みに、鏡面像は左右反転ではなく前後反転です。

2016/01/13

【浪花光画図録 北区中之島】 中之島上流・下流剣先


パリの中心部を流れるセーヌ川の中洲にあるシテ島( Île de la Cité)は、パリ観光地の定番の様です。

大阪にもシテ島を凌駕する中之島があります。
大阪市北区にあり中之島一丁目から六丁目まであります。

中之島は旧淀川の中洲で、堂島川と土佐堀川に挟まれ柳眉のような形をしています。


市役所も図書館も公会堂も美術館も博物館も大学も国際会議場もホテルも大劇場も、それこそ色んな物があります。

中之島最東端の一丁目一番地は公園として整備され、放水銃のような剣先噴水があります。



剣先噴水は30分毎に放水され、これを見学する遊覧船が写真のように運行されています。

一方、中之島最西端は中之島六丁目で、普段は何も有りません。
ところが、東端に負けないようにとは思いませんが、西端に大小便小僧が設置されました。

趣旨は川の環境保全のイベント祭の一環だったと思いますが・・・(?)

大小便小僧が設置された下の白い箱の中で、希望者に自分のオシッコの勢いを大小便小僧に400倍に再現させるのを白い箱の窓から眺めるというイベントでした。

希望者は男性だけでなく女性もOK!でした。

男性も女性も子供も嬉々として楽しんでいました。



でも、若い人ばかりが参加していて、四捨五入70歳の私のような男性は参加していません・・・・・あこがれますよね~!


大阪市北区中之島一丁目東端・六丁目西端で
(大小便小僧のイベントは2013年の秋開催でした。)

【浪花光画図録 浪速区幸町】



浪速区幸町は道頓堀川の南側、四ツ橋筋から木津川まである細長い町です。
一丁目から三丁目まであり、材木関係の会社や店が多く有ります。
昔より道頓堀川が木材の運搬に利用されていた結果だと思います。
今では写真に見るように、幸町と道頓堀川は堤防で分離され堀川の役目は終わっているようです。



今の浪速区幸町は1943年(昭和18年)市内の区の境界見直しにより西区から浪速区に編入されました。

編入された当初は「幸町通」でしたが現在は「幸町」です。
なぜ「幸町通/幸町」なのか幸町の歴史的命名の背景は分かりません。

「幸町通」の一つ南側の通が「千日前通」なのでその関係かと想像してますが、写真で見る限りごく普通の街並みです。



幸町は浪速区に編入された時から、西区にある「日吉小学校」、「堀江中学校」が校区となっています。
行政区をまたいだ校区は珍しいかもしれません。
これは、道頓堀の橋を渡って直ぐの「日吉小学校」、「堀江中学校」に今までどおり通学させたいという幸町住民の意向を忖度した結果かもしれません。

浪速区幸町で

【浪花光画図録 大正区 文化住宅】



文化白樺荘と「文化」を明記した木造アパートは消えました。

ここに「文化白樺荘」が有った記憶は数年もすればフェードアウト?

写真の力は記録・・・期待したいです。






大阪市大正区

大阪の黒猫

写真を撮ってると足下を何かゆっくり動く黒い物が・・・

尻尾に10円禿を付けた黒猫様。




おっさん・・・何か文句有るかい?

いや別に無いけど・・・もうすぐお母さんになるんでしょうが。

ふん!





悠然と去っていきました。

大阪市西成区で

2016/01/11

中央区 内久宝寺町

以前、紹介した内久宝寺町一丁目の怪しい建物の事です。

やはり気になるので昨日現地に行きました。

建物をあっちこっち詳細に眺めても手がかりがありません。



ちょうど自転車を押して通りかかった男性に聞きました。

「この鉄格子いっぱい有る建物なんだったんですかね~?」

「麻薬とか覚せい剤で捕まった人が連れてこられた建物と聞いたことある・・・詳しいことは分からんわ」と、そそくさと去っていきました。

建物の裏を撮影していると年配の女性が通りかかりました。

「この鉄格子の有る建物なんだったんですか?」

不審人物見る目で「昔、麻薬関係の事務所だったけど10年程前から空家みたい・・・」と教えてくださいました。

家に帰って、調べてみたら、どうやら「元近畿厚生局 麻薬取締部」の建物でした。

2015/12/21

北区 阪急百貨店と大阪富国生命ビル

阪急百貨店うめだ本店と大阪富国生命ビルとの間の横断歩道。

殆どの人が左から右へ・・・・





右から左へ移動する人は??

それに、シマシマに直角に渡る人がいません。

2015/12/17

福島区 大開

松下幸之助は、1917年6月大阪東成区でソケットの製造販売を始めました。

そして、翌年の3月に福島区大開二丁目で法人「松下電気器具製作所」を設立しました。

言うなれば、大開二丁目は「PANASONIC」創業の地のようで、記念碑もあります。

PANASONICに入社した新入社員の皆さんは創業地訪問はされるんでしょうか?

写真は大開一丁目の交差点ですが、真ん中の信号機の上部に「野田阪神前」の表示が掲げてあります。



交差点名は住所表示と違って、地名町名に限らず広く認知されている表示であればどんなんでも構わないようです。

なんですが「野田阪神前」という表示は少し変だと思ってます。

確かに、大開一丁目の向かいは阪神電車「野田駅」ですが、「阪神野田駅」でも「野田阪神駅」でもありません。

そして、地下には大阪交通局地下鉄千日前線の駅があります。

この地下鉄の駅名がなぜか地下鉄「野田阪神駅」です。市営なのに・・・

そもそも、写真の場所の「大開」の近隣町名は「海老江」、「鷺洲」そして「吉野」で、町名
の「野田」は結構遠く離れているんですよ。

大阪市福島区大開で

2015/12/15

【浪花光画図録 福島区野田】



大阪市福島区の町名は7つしかありません。

隣の北区には54の町名、天王寺区45、中央区にいたっては73もの町名が有るのに福島区はたったの7つとは・・・非常にすくないと思います。

写真は「野田一丁目1番地」です。

この福島区「野田」の町名は1975年(昭和50年)、9つ有った旧町名を纏めて新町名「野田」となりました。


これは、昭和50年「住所の合理化」の時、江戸時代、現在の福島区、此花区辺りに「野田村」が有ったことから夫々の町名継承を訴える住民をいなす為に「野田」を復活したのでは?と、勝手に想像しています。

それにしても、北区、中央区、天王寺区には「丁目」の無い町名が沢山有るのに。
「野田」は一丁目から八丁目まであります・・・・「丁目」多すぎません?

写真は福島区野田一丁目1番地にある大阪中央卸売市場です。



早朝の競(セリ)に向けた真夜中風景です。