2016/01/13

【浪花光画図録 北区中之島】 中之島上流・下流剣先


パリの中心部を流れるセーヌ川の中洲にあるシテ島( Île de la Cité)は、パリ観光地の定番の様です。

大阪にもシテ島を凌駕する中之島があります。
大阪市北区にあり中之島一丁目から六丁目まであります。

中之島は旧淀川の中洲で、堂島川と土佐堀川に挟まれ柳眉のような形をしています。


市役所も図書館も公会堂も美術館も博物館も大学も国際会議場もホテルも大劇場も、それこそ色んな物があります。

中之島最東端の一丁目一番地は公園として整備され、放水銃のような剣先噴水があります。



剣先噴水は30分毎に放水され、これを見学する遊覧船が写真のように運行されています。

一方、中之島最西端は中之島六丁目で、普段は何も有りません。
ところが、東端に負けないようにとは思いませんが、西端に大小便小僧が設置されました。

趣旨は川の環境保全のイベント祭の一環だったと思いますが・・・(?)

大小便小僧が設置された下の白い箱の中で、希望者に自分のオシッコの勢いを大小便小僧に400倍に再現させるのを白い箱の窓から眺めるというイベントでした。

希望者は男性だけでなく女性もOK!でした。

男性も女性も子供も嬉々として楽しんでいました。



でも、若い人ばかりが参加していて、四捨五入70歳の私のような男性は参加していません・・・・・あこがれますよね~!


大阪市北区中之島一丁目東端・六丁目西端で
(大小便小僧のイベントは2013年の秋開催でした。)

【浪花光画図録 浪速区幸町】



浪速区幸町は道頓堀川の南側、四ツ橋筋から木津川まである細長い町です。
一丁目から三丁目まであり、材木関係の会社や店が多く有ります。
昔より道頓堀川が木材の運搬に利用されていた結果だと思います。
今では写真に見るように、幸町と道頓堀川は堤防で分離され堀川の役目は終わっているようです。



今の浪速区幸町は1943年(昭和18年)市内の区の境界見直しにより西区から浪速区に編入されました。

編入された当初は「幸町通」でしたが現在は「幸町」です。
なぜ「幸町通/幸町」なのか幸町の歴史的命名の背景は分かりません。

「幸町通」の一つ南側の通が「千日前通」なのでその関係かと想像してますが、写真で見る限りごく普通の街並みです。



幸町は浪速区に編入された時から、西区にある「日吉小学校」、「堀江中学校」が校区となっています。
行政区をまたいだ校区は珍しいかもしれません。
これは、道頓堀の橋を渡って直ぐの「日吉小学校」、「堀江中学校」に今までどおり通学させたいという幸町住民の意向を忖度した結果かもしれません。

浪速区幸町で

【浪花光画図録 大正区 文化住宅】



文化白樺荘と「文化」を明記した木造アパートは消えました。

ここに「文化白樺荘」が有った記憶は数年もすればフェードアウト?

写真の力は記録・・・期待したいです。






大阪市大正区

大阪の黒猫

写真を撮ってると足下を何かゆっくり動く黒い物が・・・

尻尾に10円禿を付けた黒猫様。




おっさん・・・何か文句有るかい?

いや別に無いけど・・・もうすぐお母さんになるんでしょうが。

ふん!





悠然と去っていきました。

大阪市西成区で

2016/01/11

中央区 内久宝寺町

以前、紹介した内久宝寺町一丁目の怪しい建物の事です。

やはり気になるので昨日現地に行きました。

建物をあっちこっち詳細に眺めても手がかりがありません。



ちょうど自転車を押して通りかかった男性に聞きました。

「この鉄格子いっぱい有る建物なんだったんですかね~?」

「麻薬とか覚せい剤で捕まった人が連れてこられた建物と聞いたことある・・・詳しいことは分からんわ」と、そそくさと去っていきました。

建物の裏を撮影していると年配の女性が通りかかりました。

「この鉄格子の有る建物なんだったんですか?」

不審人物見る目で「昔、麻薬関係の事務所だったけど10年程前から空家みたい・・・」と教えてくださいました。

家に帰って、調べてみたら、どうやら「元近畿厚生局 麻薬取締部」の建物でした。

2015/12/21

北区 阪急百貨店と大阪富国生命ビル

阪急百貨店うめだ本店と大阪富国生命ビルとの間の横断歩道。

殆どの人が左から右へ・・・・





右から左へ移動する人は??

それに、シマシマに直角に渡る人がいません。

2015/12/17

福島区 大開

松下幸之助は、1917年6月大阪東成区でソケットの製造販売を始めました。

そして、翌年の3月に福島区大開二丁目で法人「松下電気器具製作所」を設立しました。

言うなれば、大開二丁目は「PANASONIC」創業の地のようで、記念碑もあります。

PANASONICに入社した新入社員の皆さんは創業地訪問はされるんでしょうか?

写真は大開一丁目の交差点ですが、真ん中の信号機の上部に「野田阪神前」の表示が掲げてあります。



交差点名は住所表示と違って、地名町名に限らず広く認知されている表示であればどんなんでも構わないようです。

なんですが「野田阪神前」という表示は少し変だと思ってます。

確かに、大開一丁目の向かいは阪神電車「野田駅」ですが、「阪神野田駅」でも「野田阪神駅」でもありません。

そして、地下には大阪交通局地下鉄千日前線の駅があります。

この地下鉄の駅名がなぜか地下鉄「野田阪神駅」です。市営なのに・・・

そもそも、写真の場所の「大開」の近隣町名は「海老江」、「鷺洲」そして「吉野」で、町名
の「野田」は結構遠く離れているんですよ。

大阪市福島区大開で

2015/12/15

【浪花光画図録 福島区野田】



大阪市福島区の町名は7つしかありません。

隣の北区には54の町名、天王寺区45、中央区にいたっては73もの町名が有るのに福島区はたったの7つとは・・・非常にすくないと思います。

写真は「野田一丁目1番地」です。

この福島区「野田」の町名は1975年(昭和50年)、9つ有った旧町名を纏めて新町名「野田」となりました。


これは、昭和50年「住所の合理化」の時、江戸時代、現在の福島区、此花区辺りに「野田村」が有ったことから夫々の町名継承を訴える住民をいなす為に「野田」を復活したのでは?と、勝手に想像しています。

それにしても、北区、中央区、天王寺区には「丁目」の無い町名が沢山有るのに。
「野田」は一丁目から八丁目まであります・・・・「丁目」多すぎません?

写真は福島区野田一丁目1番地にある大阪中央卸売市場です。



早朝の競(セリ)に向けた真夜中風景です。

2015/12/13

浪花光画図録 此花区梅町


「名は体を現す」と言います。

名前をつける時、「体」に相応しい名をつけるというのが名付け親の優しさだと思います。

大阪市此花区に「梅町」という町名があります。

地形は大阪港に突き出した所で、ネジを締める「レンチ」のような形をしています。
 

この「レンチ」の頭の辺りが「梅町」です。

ここは「梅」の産地で梅木がたくさん植わっています・・・・と紹介したいのですが、「梅町」の何処を探しても「梅」に関連するものが見当たりません。

目にするのは工場、倉庫などの工業系、運送系の建物ばかりです。
なぜ「梅町」と名づけたのか?

調べても分かりません。

ここからが、想像ですが・・・・

新しい土地に町名をつけることになり、町名を公募するにも住民もいないので此花区の区長さんや大阪市の偉いお役人がさほど深く考えもせず、隣町が「桜島」 であったので「梅島」でいいやんと事務方に指示したのを、事務方のお役人が聞き間違えて「梅町でっか?」「ああ~そんでもええわ」となんとなく決まったのではと。

桜島は人気のユニバーサルスタジオジャパン(USJ)がありますが、梅町に特段の名所はありません。



大阪市此花区梅町一丁目1番地で

2015/12/02

北区大深町 うめきた

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”あやかり”はちゃかっり自分のものにするズッコイけど憎めないイメージがあります。

その遠い昔、今のJR大阪駅近辺の地名は「深田(ふかだ)」と言われていたそうです。

その理由は、耕作に向かない低湿地というか沼地のような「深田」であったから。

この深田を埋め立てて耕作地になったので、暫く「埋田(うめだ)」と言われていた。

しかし、「埋田」は字面が悪いということで、近くの大阪天満宮の梅にあやかり、「梅田」というようになったようです。

現在も「深田」という地名の名残は「梅田」の北側、JR大阪駅の北側に「大深町」として残っています。

最近、大阪駅の北側を再開発して「グランフロント」という大きな商業施設が出来人気のエリアとなってきました。

そして、この人気エリアを愛称「うめきた」と呼ぼうと命名されました。

理由は「大深(田)」ではダサいので、誰でも知っているビックネームの梅田にあやかり、「梅田」の北側の意味で「うめきた」決まったそうです。

なんか、本名「大深田」芸名「うめきた」と言ったところでしょうか?



大阪市北区大深町1丁目1番地の「ヨドバシカメラ梅田店」

写ってませんがヨドバシビル裏がグランフロント地域です。

大阪市北区芝田

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”あやかる”に比べて“なりすまし”は何となく・・・・を感じます。

あくまで、個人の感想ですが(汗)

阪急電鉄「梅田駅」は大阪市北区芝田一丁目1番地2号が住所です。

住所は玄関・門が基準になるので阪急梅田駅は写真の所が玄関なんでしょう。

たぶん、「1番地1号」は道路拡幅工事で接収され、歩道になったのかな?

写真の真ん中辺りに、緑地に白抜きで「芝田一丁目 1」の住所表記が掲げてあります。

なので、駅にある商店街は「阪急一番街」?

しかし、なぜか、玄関壁に「阪急三番街」という看板が出ています。



この「阪急三番街」が出来たのは1968年の大阪万博の直前で、出来た時近代的なとてもお洒落な地下街でした。

最地下の食堂街には人工の川があります。

完成当時、ここは 丁目のない「北区小深町三番地」で、地名の「三番地」をもとに「阪急三番街」と名づけられたようです。

完成早々、ここ を訪れた私はまだ20歳、大阪万博が開催され、来るべき新しい時代を如実に感じたのを思い出します。

写真に写る看板のように、この阪急の駅はなぜか「阪急梅田駅」と呼ばれています。

「阪急梅田駅」南側にある阪急百貨店の「阪急うめだ本店」は「角田町」、「阪急梅田駅」は「芝田」・・・・・何処にも「梅田」に縁がないのに「阪急梅田」です。

昔、大ライバルだった阪神電車「梅田駅」は正しく「梅田三丁目」にあります。

ビックネーム「梅田」にあやかりたい、「阪神梅田」に対抗したい・・・一種の”なりすまし”?

阪神電車梅田駅開業:1906年

阪急電車梅田駅開業:1910年

尚、北区小深町は1970年代に町名変更で「芝田」になりました。

今の「芝田」の西隣町は「大深町」です。

大阪市北区 角田町

大阪市北区「角田町8番地」と聞いて・・・何を思い出しますか?

「あ~あそこね」と即答できるのは、不動産関係者の方か、角田町で働いている方ではと思います。

それよりも「え~角田町?」というのが殆どの方だと思います。

何故不動産関係者か・・・「角田町8番地/御堂筋」は「東京都中央区銀座5丁目/銀座中央通り」の次に全国で2番目に路線価の高い所です。

「角田町8番地」には「阪急百貨店うめだ本店」があります・・・なぜか「うめだ本店」です。

「かくたちょう本店」とすると路線価が下がるから?

それとも「梅田」に成りすましたほうが上がるから??

写真は「角田町1番地」です。「8番地」の反対東側になります。



右の茶色いビルB1階に「揚子江ラーメン」という細麺の美味しいラーメン屋さんがあります。

因みに、角田町は昼も夜も多くの人を見かけますが、ここに住民票を置いている住人はゼロ人だそうです。

2015/12/01

【浪花光画図録 中央区内久宝寺町】



大阪市中央区内久宝寺町一丁目の建物写真です。

たまたまこの建物は撮影されたのです。

というのも、私の勝手な個人的理由で撮影しないといけない撮影ポイントなので、結果としてこの建物が写り込んだ次第です。(汗)

この建物は公道から全方向眺めることができました。

撮影してる時、まったく感情移入するような建物ではありませんでしたが、この写真を見ていてとても疑念が涌いてきました。

ビルとしては、ごく普通の二階建ての建物です。

しかし、しかし・・・一階も二階も表も裏も右側も左側も窓という窓は鉄格子が設置されています。



玄関と左横側の非常口だけ鉄格子がありません。

そして住所表示板以外何の表示もありません。

中央区内久宝寺町一丁目は大阪でも閑静な高級住宅街です。

ここにこの様な建物は何の目的で建てられたか?

今のところ、何も分かりません。

此花区 夢洲 

大阪湾に浮かぶ埋立地「夢洲」には「夢洲中」「夢洲東」という町名があります。

ごく最近まで海だった所に「夢洲」は埋めたてられたので、町名「夢洲中」「夢洲東」はおそらく大阪市で最新の町名だと思います。

ここへ行くには、写真の右端に写ってる「夢舞大橋」を舞洲から渡る。

あるいは、咲洲(南港)から左端のガントリークレーンの所に繋がっている自動車専用海底トンネルの「夢咲海底トンネル」を行くことになります。

自動車を手放した私には、自前の二本足と自転車が唯一の近代的エコ自家用乗り物です。

先日、自転車で「夢洲」に撮影に行こうとしました。

勿論、自動車でないと行けない咲洲からの上陸は無理なので舞洲から入るはずでした。

家から巨大橋「此花大橋」を渡り、片道10kmを走りきり「夢舞大橋」に着きました。

立派な「夢舞大橋」には幅広な歩道も付設されています。

が、が、が、なぜか橋の入り口前に「歩行者・自転車通行止」の貼紙、そしてバリケードが設置されています。

渡橋不可を知って「超ムカ~! なんでやねん!!」

通行止バリケードを強行突破して侵入をも考えましたが「良き紳士、良き市民であれ!」という天の声で諦めました。

結果、写真は此花大橋から「夢洲」の遠望となりました。



船が接岸してるのが「舞洲」です。

この埋め立て地は2025年に大阪万博が開催されます。

此花区「夢洲」遠望

2015/11/19

大阪市福島区 JR野田駅

秋は夕暮れ・・・

JR大阪環状線で大正駅から大阪駅に向かう時、最後尾の車両に乗ると野田駅でこの風景が見えます。



やっぱりこのアングルのドームだと、清少納言ではなくフィリップ・ロスの男が女の体の一部に変身する短編小説を思い出します。

大阪市福島区 JR野田駅で

2015/11/10

大正区大正内港

大正内港は尻無川の河口近くにある川港です。

桟橋からは港大橋、なみはや大橋そして千歳橋が重なって眺めることが出来ます。





ただ、桟橋はとても狭く、先まで行くには平均台を渡る気分です。

そんな狭い桟橋で見かけたのは・・・



確かに、雨が降らないと邪魔な物の筆頭格ですが・・・なるほど。

大阪市大正区大正内港で

阿倍野区 天王寺北町 天王寺南町

大阪市の区の中に、阿倍野区には阿倍野元町、住之江区には住之江、生野区には生野西、生野東、住吉区に住吉、鶴見区に鶴見、浪速区には浪花西、浪速東、平野区には平野、福島区には福島、都島区には都島通などと区名にちなんだ町名があります。

天王寺区にも天王寺町北町、天王寺南町とかが有りますと・・・書こうと思っていたら??



写真に写ってる住所表示板が「阿倍野区 天王寺北町」「阿倍野区 天王寺南町」となってます。




 



掲示・記載ミスか?

なんでやねん・・・ なんで天王寺町北町、天王寺南町が阿倍野区なんやねん!

区外者には分からない理由があるんでしょうが天王寺町北町、天王寺南町を阿倍野区に決めたのは誰や~!

ほんまに、ややこしいと、言いたくなります。

因みに天王寺北町の写真にある看板「寺田町駅商店街」の寺田町は天王寺区の町名でんがな。

阿倍野区天王寺北町、天王寺南町で

2015/11/05

浪花光画図録  難波法善寺


大阪の古い呼称の「なにわ」の漢字の「難波」なんですが・・。

「難波」の由来は色々あるようですが、私は明石海峡から流れてきた海流が上町台地に当たり複雑な潮の流れと潮の干満差が大きく、「潮流が速い」ことから「荒波」で船が難儀するから「難波」いう当て字になったのではと思ってます。

現在では「難波」を「なにわ」より「なんば」と読むことが多いようです。

これは「難波」で船がひっくり返って「難破」するから「なんぱ」そして「なんば」に訛った?
勿論、歴史や学問的な検証をしてません。(汗)

大阪市中央区に「難波:なんば」という町名があります。

この難波一丁目2番地に法善寺「水掛不動」さんが祭られています。

大阪でも有名な観光スポットです。

「水掛不動」【検索】すると沢山の苔の生えたお不動さんの写真を見ることが出来ます・・・是非見てください。

あたかも、阿寒湖のマリモの親玉みたいです。

これは、朝昼晩、休むまもなく参拝の方々がお不動さん全身にお水を掛け、乾く暇もないために苔むしたようです。

人生の色々な難儀な波に人生が難破(波)しないために、波に模した「お水」を掛けてお不動さんに願掛けするのかもしれません。

これも、歴史や学問的な検証をしてません・・独断解釈です。(大汗)

写真は、お不動さんにお参りした後、お食事の楽しみ場所、難波一丁目1番地の法善寺横丁です。



ここ辺りのお店は、包丁一本さらしに巻いて修行する町?

2015/11/04

大阪市木津川落合下渡船

大阪市内の木津川には4箇所の市営渡船が無料で運営されています。

普段、昼間の乗船客は少なくのんびりとした下町風情です・・・

が、突如年齢を重ねたと思われる方々の団子(団塊?)状態の乗船風景がありました。

今日は休日だから??







 


でもお勤めの方々とは・・・毎日が日曜日としか思えないんですが。

乗船定員が40名ほででしたので二回往復してました。

ワンちゃんの乗船写真は昨年12月の小春日和の様子です。



大阪市木津川落合下渡船で

2015/10/30

大阪市西区新町

大阪市西区新町にある公園前を通る時、なにも子供の遊び場の公園にこんな石碑いるん?

公園に「砂場」が有るのがあたりまえやんと冷たく眺めていました。

ある日、改めて石碑の裏を見ると大阪城築城の時、砂利や砂を置いた場所と書いてありました。

大阪城建設400年の記念碑なんですね。。。



大阪市西区新町で

2015/10/29

西成区 信楽焼「たぬき」

近くに居酒屋さんはありません。

交差点でもない一本道で、信号もなく、停止線もなく、車はほとんど行き交いません。

なのに、「とまれ!」とは?

騙されるのかな~?



西成区北津守

2015/10/26

船場センタービル南側通路

合わせ鏡の中?

究極のシャッター通り??

シャッターは遮光のため常時閉鎖のようです。



大阪中央区にある船場センタービル南側通路で

2015/10/22

大正区船町 中山製鋼所の配管

大正区船町にある中山製鋼所。

沢山の配管が設置されているのが公道から見ることが出来ます。

その中に、如何しても不思議で気になる配管があります。

Ω型の配管です。

ただただこの位置で曲がってるだけです。

何故、真っ直ぐな配管がここに来てこのようなΩ型になってるのか??

「世の中にムダなものは何一つない」と教わったんですが・・・

Ω型にしたその訳は???



2015/10/17

大阪市北区野崎町

今の大阪市北区はJR大阪駅が出来るまでのんびりとした田園農村だったようです。

そんな農村に北野村、川崎村があり、この村の村界が入り組んでいて、どちらの村か判明しない地区がありました。

明治以降、大阪駅で発展した北区は北野村と川崎村の村界を整理することになり、結果として面倒くさいと上目線で?夫々村名の下の一字を取って地区名を「野崎」としたようです。

その後、北区は更に発展して明治の終り頃になると北野村は18程の町名に分解され、川崎村も幾つかの町名になりました。

今では「野崎町」は残っていますが由緒ある「北野」と「川崎」の地名は大阪市北区から無くなってしまいました。

淀川区にある「新北野」は北野村とは関係ないそうです。



大阪市北区野崎町で

2015/10/15

大阪市中央区城見

大阪城の「鬼門」にあたる城見の大阪ビジネスパークの写真です。

青いビルの手前の植え込みが城見一丁目1番地になります。

残念ながらガラスビルに大阪城は写りこんでいません・・・

写真の右側の石垣は大阪城の石垣です。



大阪市中央区城見で

2015/10/11

北区天神橋六丁目 「大阪くらしの今昔館」

大阪市北区天神橋六丁目に「大阪くらしの今昔館」があります。

ここは、「住まい」をテーマとした日本初の専門博物館ですが、博物館としては小ぶりです。

私が訪れた時は海外からの見学者が多く、込んでいました。意外と隠れた観光スポットなんでしょうね。

写真は、ここで展示されていた昭和30年代後半の団地?の様子です。



 
おばあさんが椅子に正座しているのが面白いですね。

時代を反映してかお父さんはお仕事で不在のようです。

4階には、「住まいや暮らし」「住宅建築」をテーマにした図書館が設置されています。

大阪市北区天神橋六丁目で

2015/10/10

北区 曽根崎新地

「北は北海道稚内から南は九州沖縄まで」と言いますが
漫才?で「北は北海道稚内から南は大阪難波まで」と言ってました。

「キタ」「ミナミ」とカタカナで書くと大阪のある地区を言います。

距離にして4km離れています。

「キタ」は梅田周辺を指します。

「ミナミ」の北にあるから「キタ」と言います?

船場から見ての位置関係がキタ、ミナミだと個人的に思ってます。

特に曽根崎新地のことを「北新地」と呼ばれ、高級なお店が多いと言われてます。

「ミナミ」は難波周辺を指します。

これも、「キタ」の南にあるから「ミナミ」と言います。(苦笑)

宗右衛門町などは大衆的なお店が多いそうです。

写真は大阪市北区曽根崎新地一丁目の昼と夜です。


2015/10/01

此花区 北港 舞洲

大阪湾の埋め立て造成地の一つ、舞洲に「北港緑町」と「北港白州」という町名があります。

大阪市は2008年夏季オリンピックを大阪でとオリンピック開催を目指していました。

大阪オリンピックのメイン会場は大阪市此花区に造られたこの人工島舞洲を予定していました。

しかし、2001年IOC総会での投票で北京市に決定したため、大阪オリンピック開催は実現しませんでした。

この舞洲にはオリンピック開催を前提に作られた幾つかの施設は結構豪華です。



北港白州一丁目2番地に造られた下水処理場とゴミ処理場は、オリンピック開催を前提としてデザインに凝った豪華な外観に造られました。

写真の手前プレハブハウスが北港白州一丁目1番地です。

それから、北港緑町一丁目は、オリンピック関連の付帯施設が予定されていました。



今は「体は名を表す」そのままに雑草の楽園、緑溢れる町となってます。

大阪市此花区北港舞洲で

2015/09/21

西区九条南 C57 

大阪市港区のJR弁天町駅に交通博物館がありましたが、今は閉鎖されています。

私は鉄チャンではありませんが、鉄道ファンには残念だと思います。

このJR弁天町駅から中央通を地下鉄九条駅方面に10分ほど歩いていくと左側に共永興業(株)という会社があります。

ここは「鉄」関係のお仕事をされているようです。

この会社の1Fロビーに蒸気機関車の貴婦人といわれたC57148号機が静態保存展示されています。

ここのC57148号機は(多分)何時でも動態に出来るように保存されているのでは?
(私の記憶では40年以上前から展示されていたと記憶してます。)

展示室の奥では蒸気機関車の色々なパーツも展示され、蒸気機関車ファンだけでなく結構楽しめますね。

多くの蒸気機関車が各地の駅前広場などで展示保存されていますが、屋外での展示の為か風雨雪などで錆びた残念な状態も少なからずあります。

ここでは屋内ガラス張りの雨風の当たらないとても良い環境に置かれてます。



写真は会社のお休みの日だったので歩道から撮影しました。

大阪市西区九条南3丁目で

2015/09/07

大阪市中央区上町

「太郎」とか「花子」となら、名前から男女の別が判別できますが、男女の別が分かりにくい名前も多いようです。

日本の民法では、男女が結婚したら、夫婦どちらかの姓を名乗ることになります。

異姓の男女が同名であったとき、戸籍で夫婦は同姓同名になるのですよね?

4枚の写真は大阪市中央区で見かけた住所表札です。

上町は超古代の大坂がまだ海に囲まれていた時から陸地でした。

なので、飛鳥・奈良時代には難波宮がすぐ近くにあり、上町は大阪の基礎となる場所で

大阪市となる前からの古い由緒ある土地だそうです。

この上町、明治以降に大阪市区制施行でたぶん強制的に東区と南区に区分けされたかな?

それでも、東区上町とか南区上町でも問題が無かったと生粋の大阪旧南区生まれの友人が言ってました。

ところが、また行政の都合か、平成元年に大阪市東区と大阪市南区が合区になり大阪市中央区となりました。

合区に伴い旧東区の上町が一丁目と表示し、旧南区の上町が二丁目にとの行政案が出たようですが、旧南区側の住人は由緒ある我が上町が二丁目になるのはいやだ!!と・・・大反対だったようです。

最終的に、旧南区住人が丁目表示のない、番地表示でもない「A」、「B」そして「C」を選んだようです。








区外者の私は、旧東区の上町は元々二丁目が無いくらいだったのだから・・・別に一丁目を付けなくても・・・・

というか、旧東区と旧南区の上町を併せても、さほど広いわけではないので、昔のように全て上町で、歴史ある難波宮に近い所から丁目なしで番地をつければ問題にならないと思いますがね。。。

で、結婚した異姓同名の夫婦は同姓同名になるので識別用のAとかBとかが付くんでしょうか?

大阪市中央区上町で

注)上町Aの住所表示板が見つかりませんでした。代用に大槻能楽堂の表札を掲げさせていただきました。能楽堂の表札下に住所表示があります。

2015/08/16

西成区 花園北 新今宮駅

大阪も、紆余曲折がありますが、良くなっていると思います。

大阪市西成区花園北1丁目1番地 真夏の朝風景

2015/08/10

中央区 宗右衛門町

道の左側が歌謡曲「宗右衛門町ブルース」、「大阪ブルース」、「大阪流し」の舞台になった宗右衛門町。

宗右衛門町の更に南側が道頓堀になります。

右側が東心斎橋二丁目です。

この辺りが大阪「ミナミ」というエリアの中心になるようです。

写真は8月の日曜日午前の風景です。


 


やはり、赤い灯青い灯が映える夜風景で無いと何となく迫力が無いですね。

大阪市中央区宗右衛門町1番地で

2015/08/08

大阪市北区梅田

野暮用があって夜の梅田を通りました。

撮影した場所は国道1号線を跨ぐ歩道橋からです。

写真右側のビルは大阪駅前でないのに「大阪駅前第三ビル」で、左側は演歌やお酒で

人気の「キタ新地」の曽根崎新地で、写ってる道路は国道2号線です。

この交差点は御堂筋と国道1号線じゃなくて・・・国道2号線かな?と御堂筋の交差点で、単に「梅田新道」あるいは「ウメシン」と呼ばれています。

この交差点の真ん中が、東京日本橋から始まった国道1号線の最終地点であり国道2号線の起始点で、国道の起点終点を示す道路元標が設置されています。

そのモニュメントが交差点の北西側の梅田一丁目1番地すぐそば・・・写真の駅前第三ビル前の歩道・・・青の右折矢印交通標識下あたりに逆円錐三角形の造形物(モニュメント)が写ってます。



見えますか?

大阪市北区梅新交差点で

2015/07/30

浪速区 恵比寿 新世界 パリ

大阪にエッフェル塔が有るのをご存知ですか?

シャンゼリ通りも・・・

浪花の新世界は、明治時代フランスパリの街並みを参考に作られました。

新世界に行くと模倣から始まりオリジナルを超えて定着するのを実感しますよ。

わざわざ遠いパリへ行かなくてもパリ以上にphotogenicな街、アジェやブラッサイに負け

ない写真が撮れる街だと思います。



それに、パリ以上に治安の良い街です。

大阪市浪速区恵比寿 新世界で

2015/07/21

大阪市中央区 船場中央

.
船場は、元もと大阪市中心部の地域名で、町名ではありませんでした。

東端が東横堀川、西端が西横堀川、南端が長堀川そして北端が土佐堀川の河川と人工の堀川に囲まれた四角形の地域が船場でした。

大阪の商売の中心地であった末吉橋通、塩町、安堂寺橋そして順慶町などが1982年(昭和57年)に南船場と町名変更されました。

大学の四年間を除く62年間、JR大阪環状線の外に住んだことのない「船場」生まれの友人は、由緒ある町名が単純な南船場とされた事に痛くご立腹です。

1970年に唐物町と北久太郎町通の一部を阪神高速道路用に接収し、高架下に船場センタービルを造り船場中央という町名が当てられました。

それにしても、高速道路の橋脚が林立する所が、由緒ある船場の中心を名乗る船場中央1丁目1番地だとは・・・

条例等でルールが有るにしても、ここの丁目と番地にトップナンバーをつけた人センス無いですな~(怒)



因みに、北船場という町名はありません。

中央区船場中央1丁目で

2015/06/22

大正区 船町 中山製綱所

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大正区自体がNYのマンハッタン島と同じ様な島です。

正確に言うと大正区は4っの島から出来ています。

その1っの船町全体が一つの小さな島です。

船町一丁目1番地は全て中山製綱所の敷地であることが分かりました。

そして船町2丁目も・・・





中山製鋼所が、平成の軍艦島にならないようにこれからも継続してこの地で頑張って欲しいと思います。

写真は対岸から見た船町一丁目1番地の遠景です。

左側のアーチは新木津川大橋

大阪市大正区船町で