海抜がマイナス1.2m。
もともとは海抜がマイナスの地域ではなかったと思います。
戦後、工業が発展して地下水の汲上が地面沈下したと聞きました。
一度地盤沈下を起こすと元に戻らないようです。
大阪府治水事務所が日頃から堤防の整備を行ってくれています。
それでも、何時来るかわからない天変地異に心の準備と避難場所を確認する必要があります。
大阪市西淀川区
2016/04/25
2016/04/20
城東区の今福南一丁目1番地は川の中?
城東区の今福南一丁目1番地は川の中?
住む所、食事をする所、寝る所は、必然的に地面であることが絶対条件だと思ってました。
先日、城東区の今福南一丁目1番地を目指して行きましたが見当たりません。
家に帰って再度地図で確認するとどうも寝屋川の右岸から川の中辺りが1番地となってました。
再度、撮影に行って確認すると写真のように岸辺の黄色い車から川の中心が今福南一丁目1番地のようです。
どうも、ここは人魚の住宅街か、悪戯を止めて人間扱いされた河童の為の住宅街かと妄想しています。
あるいは、映画にもなった小説「泥の河」のように、戦後多く存在した艀を係留させ、水上生活者の為の住所表示だったのかと思ってますが・・・?
住む所、食事をする所、寝る所は、必然的に地面であることが絶対条件だと思ってました。
先日、城東区の今福南一丁目1番地を目指して行きましたが見当たりません。
家に帰って再度地図で確認するとどうも寝屋川の右岸から川の中辺りが1番地となってました。
再度、撮影に行って確認すると写真のように岸辺の黄色い車から川の中心が今福南一丁目1番地のようです。
どうも、ここは人魚の住宅街か、悪戯を止めて人間扱いされた河童の為の住宅街かと妄想しています。
あるいは、映画にもなった小説「泥の河」のように、戦後多く存在した艀を係留させ、水上生活者の為の住所表示だったのかと思ってますが・・・?
2016/04/14
大阪市最北端の町 井高野
日本の最北端は宗谷岬。
宗谷岬と聞くだけで何となく旅情を感じます。
では、大阪市の最北端は・・・?
東淀川区「井高野」が大阪市最北端の町です。
その昔、「居鷹村」といわれ、鷹が多く住んでいたようです。
新幹線で新大阪を東京に向かって発車して直ぐにこの町を通ります。
新幹線が通っていても、最近までここへ行くには車かバスを利用しないと行けませんでしたが、地下鉄今里筋線ができてとても便利になりました。
2016/03/30
大阪市中央区道頓堀 二つ井戸町
中央区道頓堀の賑やかな商店街通りをず~と東に行くと写真のような所、道頓堀一丁目東1番地に出ます。
道頓堀の町名番地は道頓堀一丁目1番地から二丁目4番地までありますが、何故か1番地1号のすぐ東側に道頓堀一丁目東7番地があります。
かって大阪市で行われた「住所の整理」で道頓堀が一丁目から二丁目が決まりました。
道頓堀の住所変更があったあと、遅れて旧二つ井戸町が道頓堀という町名に変更する時、先に決まった道頓堀側が丁目を変更するのを面倒だと、そして旧二つ井戸町側が道頓堀の東でいいやと道頓堀一丁目東1番地から東7番地になったのではと想像しています。(確認してません)
この「二つ井戸町」は由緒ある町名です。
なにもワザワザ二つ井戸町を強引に道頓堀に変更しなくても、行政の指導が有ったとしてもそのまま二つ井戸町1番地から7番地で良かったのではと個人的に思います。
写真の右の通り、高速道路高架をくぐって真っ直ぐ行くと道頓堀商店街にでます。
道頓堀の町名番地は道頓堀一丁目1番地から二丁目4番地までありますが、何故か1番地1号のすぐ東側に道頓堀一丁目東7番地があります。
かって大阪市で行われた「住所の整理」で道頓堀が一丁目から二丁目が決まりました。
道頓堀の住所変更があったあと、遅れて旧二つ井戸町が道頓堀という町名に変更する時、先に決まった道頓堀側が丁目を変更するのを面倒だと、そして旧二つ井戸町側が道頓堀の東でいいやと道頓堀一丁目東1番地から東7番地になったのではと想像しています。(確認してません)
この「二つ井戸町」は由緒ある町名です。
なにもワザワザ二つ井戸町を強引に道頓堀に変更しなくても、行政の指導が有ったとしてもそのまま二つ井戸町1番地から7番地で良かったのではと個人的に思います。
写真の右の通り、高速道路高架をくぐって真っ直ぐ行くと道頓堀商店街にでます。
2016/03/25
大正区船町 中山製鋼所
中山製鋼所転炉工場の解体が進んでいます。
解体工事関係者にお聞きすると4月中には更地になるようです。
工場で働く人たちが買い物、食事した工場周辺の店舗などは休業・廃業されています。
生産の効率化などで労働集約的な仕事が少なくなった事もあり、かっての、企業城下町の賑わいは戻ることが無いのかもしれません。
日本の高度成長を支えてきた製鋼所も転機を迎えているのでしょうね。
解体工事関係者にお聞きすると4月中には更地になるようです。
工場で働く人たちが買い物、食事した工場周辺の店舗などは休業・廃業されています。
生産の効率化などで労働集約的な仕事が少なくなった事もあり、かっての、企業城下町の賑わいは戻ることが無いのかもしれません。
日本の高度成長を支えてきた製鋼所も転機を迎えているのでしょうね。
大阪市大正区 文化住宅
写真集「HOUSES」に掲載した文化住宅ですが、
一年ぶりに訪れたら写真のようになっていました。
住んでいた人たちは高齢者が多く、何処へ引っ越したのでしょう。
この更地の広さからするとマンションが建つのかもしれません。
木造二階建モルタル塗りの瓦屋根のアパートは通称「文化住宅」と言われます。
戦後の住宅不足に多く建てられた文化住宅は寿命を向かえ、数年の間に多くが解体されるのでしょうね。
写真は更地になる前の「文化住宅」です。
一年ぶりに訪れたら写真のようになっていました。
住んでいた人たちは高齢者が多く、何処へ引っ越したのでしょう。
この更地の広さからするとマンションが建つのかもしれません。
木造二階建モルタル塗りの瓦屋根のアパートは通称「文化住宅」と言われます。
戦後の住宅不足に多く建てられた文化住宅は寿命を向かえ、数年の間に多くが解体されるのでしょうね。
写真は更地になる前の「文化住宅」です。
2016/03/21
大阪市中央区道頓堀
道頓堀は大阪ミナミの主要な観光名所です。
この商店街中ほどには巨大な3Dの看板があり、タコやカニなどは腕や足がうごきます。
そんな道頓堀一丁目1番地・・・道頓堀商店街の東入り口です。
写真のカニは2Dのネオン看板です。
写真は午前8時前で、まだ観光バスが到着していないのですが、昼間になると東口はひっきりなしに観光バスが到着します。
中国からの観光客が多く、何故かスーツケースを持参してきます。
スーツケースを預ける習慣が無いのか、爆買用なのか分かりません。
この商店街中ほどには巨大な3Dの看板があり、タコやカニなどは腕や足がうごきます。
そんな道頓堀一丁目1番地・・・道頓堀商店街の東入り口です。
写真のカニは2Dのネオン看板です。
写真は午前8時前で、まだ観光バスが到着していないのですが、昼間になると東口はひっきりなしに観光バスが到着します。
中国からの観光客が多く、何故かスーツケースを持参してきます。
スーツケースを預ける習慣が無いのか、爆買用なのか分かりません。
2016/03/19
大阪市内の野生動物
三階屋上でプランター栽培をしています。
最近、プランターの土などが散らかっています。
以前、大きなドブネズミが走り去るのを見かけたので、きっとドブネズミの仕業と思い、ネズミ捕りを仕掛けました。
数日後、写真のようにイタチがゲージの中に入ってました。
それにしてもイタチはスカンクの仲間なので臭いがきつかったですね。
可愛い顔と臭いのギャップは相当です。とてもペットにできません。
イタチは捕獲飼育は禁止されているので写真を撮った後、逃しました。
数日後、やはりプランターの土が散らばっているので再度ネズミ捕りを仕掛けました。
今度は鳥が入っていました。
空飛ぶドブネズミと言われる土鳩かと思ったら、大島紬のような青い羽をした鳥です。胸元は赤系統の色をしていました。
形はカラスの様ですが、大きさはハトぐらいなのですが何の鳥か不明です。
野生動物の捕獲はネズミ以外基本禁止されているので、この鳥も撮影後逃しました。
大阪市内の本格的な町中でも野生動物が結構生息しています。
が、簡単にネズミ捕りで捕獲されるのはどうなのかと思います。
肝心のドブネズミはまだ捕獲できていません。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
後日、この鳥はイソヒヨドリじゃないかと教えていただきました。
最近、プランターの土などが散らかっています。
以前、大きなドブネズミが走り去るのを見かけたので、きっとドブネズミの仕業と思い、ネズミ捕りを仕掛けました。
数日後、写真のようにイタチがゲージの中に入ってました。
それにしてもイタチはスカンクの仲間なので臭いがきつかったですね。
可愛い顔と臭いのギャップは相当です。とてもペットにできません。
イタチは捕獲飼育は禁止されているので写真を撮った後、逃しました。
数日後、やはりプランターの土が散らばっているので再度ネズミ捕りを仕掛けました。
今度は鳥が入っていました。
空飛ぶドブネズミと言われる土鳩かと思ったら、大島紬のような青い羽をした鳥です。胸元は赤系統の色をしていました。
形はカラスの様ですが、大きさはハトぐらいなのですが何の鳥か不明です。
野生動物の捕獲はネズミ以外基本禁止されているので、この鳥も撮影後逃しました。
大阪市内の本格的な町中でも野生動物が結構生息しています。
が、簡単にネズミ捕りで捕獲されるのはどうなのかと思います。
肝心のドブネズミはまだ捕獲できていません。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
後日、この鳥はイソヒヨドリじゃないかと教えていただきました。
2016/03/14
大阪市大正区 スーパーマリオ?
大阪の観光名所の一つに道頓堀があります。
この道頓堀の通りには巨大な造形の看板が目立ち、結構人目を引きます。
道頓堀から離れた大正区三軒家東の町中のビルの屋上にスーパーマリオ君を見つけました。
どうもこの会社は建設関係のお仕事をされているのかもしれません。
スーパーマリオ君を見つけるには、車や自転車では中々難しいのではと思っています。
道頓堀だけでなく大阪市内ではいろんな巨大看板造形物が多いと思います。
2016/03/04
大阪市港区 尻無川右岸
今の尻無川は大阪ドームの南側、木津川から分枝している運河です。
尻無川に遊水地というかと堤防と川の間に道路とか荷役資材置き場が今でもある珍しい運河だと思います。
右岸には淡路産の屋根瓦を取り扱う瓦問屋の倉庫があります。
瓦倉庫はいずれも古い木造倉庫です。
現在では淡路と明石の間に明石大橋が出来てから、陸送が主流になって船で瓦が運ばれる事を見る事は無くなった(のかもしれません)。
下流には石材倉庫というか置き場がありますが、陸送が主流の今では、ここで石材が船で取引されているようには見受けません。
大阪の運河は、本来の目的の荷役の役目は終わったのでしょうね。
2016/02/28
大阪市港区とオランダ国ライデン市
大阪市内の川・運河は10m前後の堤防で囲まれています。
オランダ国ライデン市を訪問した時、街中も郊外も一切堤防を見ることはありません。
オランダ国は海抜0メートル以下の所が多く、堤防が無いと海の底になってしまいます。
でも、北海に面した海岸に大堤防を築いているので街中の川・運河には堤防が不要の様です。
地震、津波、高潮のない国とそうでない国の国土の造り方が当然違うのは仕方が無いことだと思います。
それと、ライデン市の川・運河の殆どにガードレール(柵)が無いのも驚きました。
大阪市港区とオランダ国ライデン市
オランダ国ライデン市を訪問した時、街中も郊外も一切堤防を見ることはありません。
オランダ国は海抜0メートル以下の所が多く、堤防が無いと海の底になってしまいます。
でも、北海に面した海岸に大堤防を築いているので街中の川・運河には堤防が不要の様です。
地震、津波、高潮のない国とそうでない国の国土の造り方が当然違うのは仕方が無いことだと思います。
それと、ライデン市の川・運河の殆どにガードレール(柵)が無いのも驚きました。
大阪市港区とオランダ国ライデン市
2016/02/27
大正内港
大正内港は、昭和50年に完成しました。
尻無川左岸にある人工港湾で、大阪港の一部となります。
昔は沢山の艀(はしけ)が係留されていましたが、今は大阪港に入港する大型船のタグボートの船溜となっています。
写真は大正内港の北側(尻無川上流)の桟橋です。
この辺りは町工場が多くあります。
写真は大正内港に行く途中の町工場のひとコマです。
2016/02/25
【VIEW OSAKA #3 HOUSES】
【VIEW OSAKA HOUSES】
Walking along a
familiar back street,
I come across a vacant
lot that wasn’t there before.
What was the old house
that used to be here like?
I can’t quite seem to
remember…
Everyone can relate to
this experience, I think.
What we see, hear, and
remember day to day
is
transient, melting into mist and sinking into shadows.
That’s just the way
it is.
The
cramped, low-slung wood-frame apartment buildings and ready-built
houses
where
so many Japanese people shared joys and sorrows
in
the postwar decades are now disappearing, lost to the passage of time
without ever getting much acknowledgment in records of architectural
history.
I hope that these
photographs of dwellings for the common people of Osaka
will evoke in the
viewer’s imagination
the many lives and
myriad stories that these walls have contained.
Tomatsu Shiro
<Explanatory
text>
In
Osaka and the surrounding Kansai region, the phrase bunka
jutaku (literally, “cultural
housing”) means something very different from its original meaning.
“Cultural” here refers to things modern and/or Western, and in
the prewar years bunka jutaku
were grand, architecturally eclectic detached homes mixing Japanese
and imported elements. In the Osaka area, the phrase was later
adopted for a type of inexpensive apartment house widely erected
nationwide in the 1950s and 1960s. Wood-frame, with pressed mortar
siding and kawara
roof tiles, they stretch out lengthways, with rows of doors to
individual apartments closely spaced along their open-air corridors.
I
have been told that this use of bunka
jutaku in the Osaka region was a
quintessentially Osakan, self-effacing ironic reference to the fact
that while still humble (for example, the apartments lacked baths)
they now had individual kitchens and toilets, unlike the wooden
apartment houses preceding them where kitchens and toilets were
shared.
In
the decades following World War II, these cramped wood-frame
apartment houses were rapidly thrown up across Japan, to meet
skyrocketing demand for workers’ housing in its teeming cities.
However, with economic progress and social changes, working families
began moving out of these apartments and into ready-built
single-family homes or so-called “mansions”*. Today the old
wood-frame two-story apartment houses are quietly disappearing from
the urban landscape.
Formerly
home to so many working people and their families, these buildings
are witnesses to history, in which we can still catch echoes of how
people lived in the lean but dream-filled postwar years. I believe
they deserve preservation as a historically important type of urban
residential architecture.
The
dwellings appearing in Houses,
the third part of the View Osaka series, are primarily wood-frame
apartment houses (bunka jutaku),
high-rise apartment buildings, and ready-built single-family homes,
built to house ordinary working people between the end of World War
II and the close of the 20th
century. Buildings like these are ubiquitous in cities throughout
Japan, but the ones shown here were shot in roughly the same area of
Osaka as Part 1 (The Dome)
and Part 2 (Rivers)
of the View Osaka series.
Tomatsu
Shiro
*In
Japan, the word “mansion” does not refer to a large, ostentatious
home for wealthy people, but rather a reinforced concrete, often
high-rise apartment building (also known as “heights,” “corpo,”
“maison,” etc.)
(References)
Noguchi,
Toru, Townhouses of Medieval Kyoto,
Kyoto University Press, 1988
Ishida,
Junichiro and Nakagawa, Osamu, ed., History
of Architecture: Modern Architecture,
Kyoto University of Art and Design, 1998
Azuma,
Takamitsu, Urban Housing,
Kajima Institute Publishing, 1998
Koga,
Shusaku and Fujita, Masaya, ed., History
of Architecture: Japanese Architecture,
Kyoto University of Art and Design, 1999
Ando,
Tadao, Houses,
ADA Edita Tokyo, 2011
<Articles>
Notes
on the Third Installment of the View Osaka Series
Tomatsu
Shiro’s View Osaka trilogy is brought to a compelling
conclusion with Houses. In this series Tomatsu, a long-time
resident of Osaka, has created a vivid portrait of the city for
future generations.
The
View Osaka series began with The Dome, occasioned by
the completion of Osaka Dome (since renamed Kyocera Dome Osaka). In
these photos the dome is seen in the distance, descending on the
Osaka cityscape like a colossal silver UFO – at the time everyone
noted the resemblance. Twenty years later, I wonder if I’m the only
one who still thinks the weird structure looks out of place.
The
trilogy continued with Rivers, capturing scenes along the many
waterways of Osaka, and comes to a close with Houses, which
focuses primarily on the bunka jutaku (wood-frame, two-story
apartment buildings) that housed so many in the postwar years but
today have fallen into decrepitude.
Not
an Osaka native himself, Tomatsu has seized on the essence of Osaka
in these images of the area he has long called home. These
photographs are faithful documents but also richly expressive,
poignantly capturing the fading remnants of an era before they
inevitably vanish altogether.
As
someone who has also lived in Osaka for many years and discovered so
much, I profoundly identify with Tomatsu’s vision. Through his
photography he contributes, or returns, something to society, and
this is surely part of the mission of every photographer.
Now
that the View Osaka series is complete, I hope that its images
will reach as wide an audience as possible, and will be a treasured
archive that only becomes more precious with the passage of time.
Tanaka
Jin
Professor,
Department of Photography, TOKYO POLYTECHNIC UNIVERSITY
(formerly
head of Photography Course, Faculty of Art and Design Kyoto
University of Art and Design)
<日本語>
歩きなれた路地沿いに突如現われた空き地
果たしてどのような町家があったのか?
俄かに思い出す事が出来ないのは私だけではないと思う。
私達が日頃の暮らしの中で
ふと目や耳にする記憶は
儚く時とともに茫漠たる闇の彼方に沈んでいく。
これは仕方の無いことなのだろう。
戦後、多くの庶民一人ひとりの悲喜交々の生活を眺めて来た
文化住宅という木造アパートや建売分譲住宅などの町家は
建築史の表舞台に固有名詞で登場することもなく
時代の変化とともに消えていく。
大阪の庶民の住宅写真から
日々坦々と暮らしている人々のありさまを
思い巡らして頂けたら嬉しく思います。
東松至朗
撮影期間 2009年11月~2014年10月
===============================
大阪に「文化住宅」という和洋折衷の邸宅と真逆の「文化住宅」がある。1950年代~1960年代、高度経済成長期に建てられた町家の事である。これは大阪以外の都市でも建てられている瓦葺き木造モルタル2階建、各階に長屋状に住戸が並ぶ木造アパートを指す。
木造アパートが大阪近隣で「文化住宅」と名付けられたのは、それまでの木造アパートに風呂は無く台所とトイレを共同使用していたのに対し、台所とトイレが各住居毎に独立して配置され、風呂は無いけれど従来の木造アパートより文化的という大阪独特の自虐ギャグ呼称だと聞いた。
この木造アパートは太平洋戦争後、都市部で爆発的に急増する勤労者の住宅需要に応えてきた。だが、社会と暮らしの変化により勤労者は木造アパートから建売分譲住宅やマンション(注)などに住み替え、木造アパートは役目を静かに終えつつある。
多くの勤労者家族が生活した木造アパートは戦後日本の風俗を語る歴史の証人であろう。歴史的町家遺構として残れば良いと思う。
VIEW OSAKAシリーズ第三部「HOUSES」で取り上げた住宅は、戦後から20世紀末に建てられた勤労者向け住宅で、主に木造アパート(文化住宅)、高層集合住宅そして建売分譲住宅である。これらの住宅は日本の多くの都市部に普遍的に建てられているが、第一部「THE
DOME」、第二部「RIVERS」とほぼ同じ地域を撮影地とした。
記:東松至朗
注)日本の鉄筋コンクリート造の「マンション」、「ハイツ」、「コーポ」そして「メゾン」と呼称される高層集合住宅は、英語で言うアパートメントビルディングのことである。これらは日本独特の表現であり、西洋で言う「お金持ちが建てた邸宅」の意味ではない。
【参照】
野口 徹著 「中世京都の町家」東京大学出版会 1988年
大阪市都市住宅史編集委員会「まちに住まう
-大阪都市住宅史-」平凡社 1989年
石田潤一郎・中川理編 「建築史ー近代の建築」 京都造形芸術大学 1998年
東 孝光著 「都市・住宅論」 鹿島出版会 1998年
古賀秀策・藤田勝也編 「建築史ー日本の建築」 京都造形芸術大学 1999年
安藤忠雄著「住宅」 ADAエディタトーキョー 2011年
【VIEW OSAKA #2 RIVERS】
【VIEW OSAKA RIVERS】
Osaka,
the Water Capital
The
phrase “Water Capital” evokes a metropolis in which rivers and
streets intersect, with a picturesque urban landscape of many
riverbanks and bridges. From the Middle Ages onward, Osaka developed
into one of Japan’s great merchant cities, and the countless canals
criss-crossing it made this thriving commerce possible and earned it
the nickname Water Capital.
Through
the Osaka end of the Osaka-Kobe industrial belt, a linchpin of
present-day Japanese industry, flow several rivers: the Kizu, the
Shirinashi, the Aji, and the Shin-Yodo. Bridges were built over the
downstream sections of these rivers during the period following World
War II, when demand for land transport was growing. These bridges had
to be colossal, 30 to 50 meters high, so as to allow the passage of
large ships plying the river between upstream factories and the sea.
These titanic bridges were outfitted with pedestrian walkways, but it
is a lot of trouble for people on bicycles or on foot to ascend,
cross, and descend them. For this reason there are still eight places
where small municipal ferries carry people back and forth across the
river to this day.
Today,
many of the upstream factories that needed the services of those
great sea ships have vanished, replaced by residential developments,
large shopping malls, golf driving ranges, or simply enormous vacant
lots. Fish and seagulls have returned to rivers that were once
clogged with sewage and all manner of things, and people can no
longer smell the peculiar smell wafting off the Muddy River.*
Riverbanks throughout Osaka have been cleaned up and turned into
places for relaxation, and visiting tourists enjoy the reflections of
the city lights shimmering in the water.
A
leisurely river soothes and softens the rough edges of life. At the
same time, fewer and fewer people in Osaka come in close contact with
rivers these days. With flood control infrastructure put in place to
prevent reoccurrences of the floods, high tides, and tsunamis of the
past, embankments have been repeatedly regraded and made higher and
higher, and it is harder and harder to get right to the river’s
edge.
I
hope that these photographs of river scenery, taken from atop bridges
and embankments in the course of daily life, will convey at least an
echo of the vibrant hubbub that once resonated up and down the rivers
and canals of Osaka, the Water Capital.
Tomatsu
Shiro
(photographs taken
between September 2009 and November 2013)
<Explanatory
text>
The
Rivers of Osaka
In
ancient Osaka, the waters of the sea reached as far as the foothills
of Mt. Ikoma to the east, and there were numerous coves. These coves
were gradually filled with sediment carried downstream by the Yodo
River, which has sources in Shiga, Kyoto, and Nara Prefectures, and
by the Yamato River, which emerges in Nara Prefecture. Over the
centuries this sediment accumulated and became the Osaka Plain of
today. Meanwhile, the marine current flowing from the Akashi Strait
into Osaka Bay created many shoals, sandbanks, and delta islands
along the coast, where people settled in villages and traveled around
by boat. In 645 AD, Emperor Kotoku moved the capital to Osaka and
built Naniwanomiya Palace. In those times, the nickname Water Capital
referred to this palace on a high spit of land surrounded by islands
and rivers.
In
the 16th century, the warrior-statesman Toyotomi Hideyoshi
built Osaka Castle, and ordered the digging of many canals and
waterways such as the Kizu River to aid the advancement of the
surrounding city. This was because massive amounts of goods could be
hauled by boat with vastly less trouble and expense than by people
and horses over land. Later, during the Edo Period (1603-1868), many
more narrow waterways were dug as a substitute for streets. Along
these waterways, small cargo vessels departed and arrived with the
falling and rising tides. Commodities from throughout Japan arrived
in Osaka by boat, and records from the time state that, “seven-tenths
of Japan’s goods are in Osaka, and seven-tenths of Osaka’s goods
are aboard boats.” The phrase “Water Capital” came to refer to
a city of thriving commerce made possible by countless man-made
waterways and canals.
Water-based
transport flourished in Osaka from the 17th century
onward, and to ensure its stable continuation, flood control measures
had to be implemented in the Yodo and Yamato River basins. During the
Edo Period, merchant Kawamura Zuiken oversaw the digging of the Aji
River in 1684, and farmer Naka Jinbei devoted great effort to the
diversion of the Yamato River to its current route in 1704.
Osaka’s
ultimate defense against flooding from torrential rains came in the
form of a channel capable of draining floodwaters to Osaka Bay via
the Nakatsu River, which branches off from the Yodo River near Kema.
The Meiji (1868-1912) government summoned Dutch civil engineer
Johannis de Rijke to lead the project, and completed the
16-kilometer, 500- to 700-meter-wide Shin-Yodo (New Yodo) River in
1910.
During
Japan’s postwar period of rapid economic growth, many canals and
waterways were filled in as roads were constructed and container
vessels became the norm for shipping goods. Today, most remain only
in the form of place names containing the words “bridge” or
“river.”
(Written by Tomatsu
Shiro)
Reference
- History of Nishi Ward I and II, Vol. 2, Nishi Ward History Publication Committee, 1979
<Articles>
The
Mission of View Osaka
Tomatsu
Shiro’s photographs in the View Osaka series are not
calculated or staged, nor do they make strong appeals to the
emotions. Instead, he scans the Osaka cityscape and captures it
carefully and objectively. His pictures give the powerful sense of a
photographer on a long-term mission. Just what is Tomatsu’s
mission?
The series is conceived
as a trilogy. The first part, The Dome, is a collection of
photographs of Osaka’s low-lying, salt-of-the-earth cityscape with
Osaka Dome (present-day Kyocera Dome Osaka) looming in the distance.
Now, Tomatsu has published the second part, Rivers.
This part of the series
focuses on Osaka as a “Water Capital.” Since ancient times, the
city flourished as a nexus of river-based trade, and during the Edo
Period (1603-1868) merchants funded the construction of many bridges
for use in daily life and commerce. Today, Osaka is a composite city
containing commercial, industrial, business, and residential
districts. Its structure is largely determined by the rivers running
through it, which partition the above-mentioned districts. Rivers
form the boundaries between districts, and along rivers one can
glimpse the full panoply of urban life.
Osaka is a city of many
bridges, said in the past to number 808, as well as snarls of
multi-leveled expressways and railroads over the rivers. These rivers
are crossed by ferries and plied by sightseeing boats, and there are
roads going under them and sprawling banks where people gather for
all manner of purposes. All of these things combine to form the Water
Capital we know today.
In the third part of
the series, Tomatsu plans to turn the lens on the dwellings of
Osaka’s common people. This promises to provide a fascinating
window into the everyday lifestyles of the city’s residents.
When complete, Tomatsu
Shiro’s trilogy of photo books will serve as a multifaceted record
of Osaka at a particular juncture in its history. The View Osaka
series will give the people of the future a picture of Osaka in the
early 21st century. I hope that this endeavor will be seen
by as many people as possible, and serve as a precious document of
present-day Osaka for posterity.
Tokunaga
Yoshie
Artist
/ Manager, Tokunaga Institute of Photo & Art
<日本語>
<日本語>
「水の都・大阪」
「水の都」とは、街中を道路と水路が交錯し、川辺や橋からの眺めが好ましい風景を醸し出している水辺都市のことを指す。
大阪は中世以降、日本を代表する大商業都市に発展した。この下支えをし、「水の都・大阪」と言わしめたのは町中に掘られた数多くの運河であった。
現代日本の産業を支える阪神工業地帯の大阪市エリアに木津川、尻無川、安治川そして新淀川などがある。第二次世界大戦後、これらの川下に、需要の増えた陸運のために橋が掛けられた。だが、これらの橋は、海から上流の工場への大型船舶の航行を確保するために、川面から30m~50mを超える巨大橋となった。この巨大橋に歩道も付けられたが、市民の日常生活で自転車・徒歩による渡橋は明らかに負担が大きい。結果として昔ながらの市営渡船が8ヶ所残されている。
今では、海から巨大橋をくぐる大型船を必要とする川上の工場の幾つかは撤退し、跡地は建売住宅、大型ショッピングモールやゴルフ練習場そして更地のままとなっている。
かって、生活排水など有りとあらゆる物が流れ込んだ川に魚やユリカモメが戻り、『泥の河』(注)から湧き立つ独特な異臭を嗅ぐことは無くなった。そして、街中の川は憩いの場所として整備され、大阪を訪れる観光客が川面から「水の都」の風景を楽しんでいる。
穏やかな川は日常生活に癒しと潤いを与えてくれる。しかし、現在多くの大阪市民は直接川に関わることが稀な事となった。洪水、高潮そして津波など、過去の大災害を再現させない治水・水害対策で再々嵩上げされ高くなる堤防が、ことさら川との結び付きを難しくしている。
日々の暮らしの中で、時折橋や堤防の上から眺める大阪の川風景写真から、川や運河が醸し出す微かな「水の都・大阪」の風情を感じてもらえたら嬉しく思います。
東松至朗
(撮影期間 2009年9月~2013年11月)
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「大阪の川」
古代の大坂(注)は東に位置する生駒の山麓にまで海水が入り込み多くの入り江が有った。この入り江に現在の滋賀県、京都府、奈良県の各地を水源とする淀川と、奈良県を水源とする大和川が上流の土砂を流下させた。そして、悠久の月日を経て、川下に土砂が堆積し大坂平野を形成してきた。一方、明石海峡から大坂湾に押し寄せる潮流の作用により、沿岸部に瀬や洲をつくり、そして多くの三角州島を造った。この海辺の島に人が住み、船で往来するようになり、645年孝徳天皇はこの地に遷都して難波宮を置いた。古代の「水の都」は、海や川に囲まれた「難波宮」を指す愛称であった。
16世紀、豊臣秀吉が大坂城を築城し、大坂の発展に木津川をはじめ数多くの運河・掘割を開鑿(かいさく)した。これは人馬の力による陸上輸送と比較にならない廉価で大量輸送できる船による水運が重要視された事による。
江戸時代に入っても、大坂は町中に小路を造るが如く掘割が造られた。掘割には潮の干満によって、荷船の出帆あり着船があった。日本国中の物貨が船で大坂に運ばれ「日本の貨の7分は大坂にあり、大坂の貨の7分は船の中にある」と記された。「水の都」は数多く造られた掘割と水運の発展による大坂の繁栄を示す呼称になった。
大坂の水運が発展した17世紀以降、継続安定した船輸送を確保するには淀川水系、大和川水系の治水対策が必須であった。江戸時代、1684年河村瑞賢(町人)による安治川の開鑿や、1704年中甚兵衛(百姓)の尽力で大和川を現在の位置に付け替える工事が行われた。
大阪の究極の大雨洪水対策は、淀川流域毛馬の辺りから分枝する中津川を利用して、洪水を起こす川水を一気に大阪湾に流す放水路を開鑿することであった。明治政府はオランダ人土木技師ヨハニス・デ・レーケを招聘し、1910年(明治43年)川幅500~750mで長さ約16km.の新淀川を完成させた。
現在の大阪は、高度経済成長期の道路整備やコンテナ船の普及等で多くの運河・堀川は埋め立てられている。そして、橋や堀川は地名に遺すのみとなった。
江戸時代(1600年代)の大坂平野概略図
図中の青色は現在の大和川・新淀川の位置
を示す。大阪湾と記されている
海の殆どは現在陸地になっている。
(記:東松至朗)
【参照】
①西区史Ⅰ・Ⅱ 西区史刊行委員会著 第二巻 1979年
②大阪府史 大阪府史編集室/編集 第五巻 1985年
注)大阪は古来「大坂」と記されたが、明治以降「大阪」と記されるようになった。
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